8月23日 函館山周辺へ 3
>安政4(1857)年、名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から
約3,770㎡の土地の払い下げを受け、庵とともに各地の名花、名木を集め、美しい
庭園を造った。
これは住民にも解放され、箱館一の名園として親しまれた。
咬菜とは粗食のこと。五稜郭の設計・監督にあたった武田斐三郎が名付けた。
明治2(1869)年3月4日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に追討令が下り、新政府軍艦隊は品川から出航した。
これを聞きつけた榎本は、3月14日、幹部6人とともに、この咬菜園に集まり、今宵が最後の宴とし飲み、かつ詩を吟じた。
この中に箱館奉行並で俳人の中島三郎助(元は浦賀・与力でぺりー来航時には応接係を務めた)もいて
「ほととぎす われも血を吐く思い哉」
「われもまた 死土で呼ばれん 白牡丹」の句をこの時詠んでいる。
今、庭園前の道路から五稜郭方向を眺めると真っ白いタワーがあって、目印となるが、当時は野原の中に大きな五稜の姿が見えたに違いない。
翌朝、馬を走らせ帰営する幹部の姿が浮かぶ。
旗艦・開陽丸をも失い、津軽海峡を制海できなくなった榎本軍、悲痛な覚悟があったかも知れない。
現在は個人の住宅地になっているので、見学時にはマナーを忘れないようにしたいもの。
http://blog.goo.ne.jp/mikaeru171/e/960c7d3d07834511a0d179d0713dbf21
この看板がある場所の下の方(塀の中)に樹木が植えられているような感じだった。
もう少し上って、狭い坂の上を見上げると
坂から見下ろすと
坂を上ったまま西へ進む。栗のイガが大きくなってる。
右手の風景を見下ろすとさっきの教会のとんがった屋根が見えるね。
左手には花畑を手入れしている人がいて、風車が回ってた。
下の方から子供たちの声が聞こえたので・・・公園があるんだね。シーソーで遊んでる。
自動販売機でお茶を買った。
カードで買えるんだ!とちょっとびっくり
さっきの子供たちをもう一度・・・
こんなふうに子供たちが遊んでいる姿をなかなか見かけなくなった。
坂が多いから、遊べるところは少ないかな・・・。
咬菜園…
初めて聴きました!
函館は色々な物語に溢れていますね^^
咬菜園・・・何度も元町周辺を散策してるけど、この坂道は上ったことがなかったようです。
ロープウェー乗り場からずっと西へ向かって歩く散策、気ままな感じで発見があると嬉しいですね。
個人の住宅になってしまっているので、庭園だったところはたぶんこの塀の向こう側なんだろうな~と想像するだけでした。
庭園の手入れは大変だと思うので、公開することはないと思いますが、こうした看板があるだけでも、想像がふくらみます。
それにしても、函館山周辺は坂がたくさんあります。^^;